幕末の志士のようなパワーはどこから出てくるのか?
映画「長州ファイブ」を見た。思いかけずよかった。
幕末の志士の物語が好きなのだが、何が好きなのかというと、老人たちが既得権益にしがみついて時代が閉塞的になっている状態を、その頃の20代の若い奴らが命をかけて新しいことに挑み、時代をひっくり返してしまう。そんな痛快さが、そして彼らのひたむきさや、熱心さが好きだ。もちろん攘夷などという馬鹿げた理念や暗殺、テロ、暴力が乱れ飛ぶ、今からすれば野蛮な輩で溢れていたのだが、しかし海外の技術や学問に触れた途端に自分のこれまでの考えを改め、真摯に態度を変えていく者も数多く、日本人の賢さや理性の高さも素晴らしいと思うのだ。幕末の志士のようなパワーはどこから出てくるのか?いつも不思議に思う。
最初「長州ファイブ」というタイトルや、ポスターのビジュアルが、なんともナンパな感じに思ってしまい、松田龍平主演の歴女向けの映画かなと勘ぐってしまったのだが、真面目な映画でした。
長州藩からイギリスに留学した、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の「長州五傑」の物語。強烈な攘夷派である長州藩の中にも、外人を切ってもどうにもならないと感じていた井上聞多のような20代の若者がいて、彼を中心に密航して英国に渡り、様々な技術を勉強して、明治時代に日本の文明化に貢献した。井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。
たくさんの価値観があった時代
同じ20代でも、もちろん様々な思想があった。新撰組の若者のように外人日本に入れるな、斬ってしまえ!とか、天皇を幕府よりもトップに立てろ!とか、混沌としていたのだが、この5人がちょっと違うのは学問をしていたということだろう。伊藤俊輔は松下村塾の塾生だった。山尾庸三は経理が得意で、江戸へ行き航海術を学び、ロシアを査察し、函館で航海術を極める。野村弥吉は洋学兵法、航海術、英語など長崎、江戸、函館と遊学している。井上聞多も江戸へ遊学し、伊藤と学問をしている。佐久間象山のような新しい思想にも触れて、柔軟な頭で攘夷に疑問を持ち始める。
今ほど英語の教材もなく、その当時のハイテクの知識を何年も異国で学ぶというのは想像を絶する苦労だ。しかしそのことを成し遂げさせたものは唯一「執念」しかないと感じる。最初は長州藩の発展のために技術を学び、新しい攘夷として外国の侵略を防ごうという思想であったが、英国の社会を見てしまったら、攘夷論も長州藩という尺度も吹き飛び、「日本」というアイデンティティが生まれ、何のために技術を学びに来たのか、その使命感が確立されたのであろう。使命感がなければ、執念も生まれない。幕末の志士のパワーはこういうところから出てくるのではないか。
価値観を変えるのに必要なこと
現代の日本も新しい価値観、混沌とした社会、閉塞感などある意味幕末と似たような環境だと感じている。自分の藩(つまり自分の会社)の儲けだけ、自分の生活だけを考えるのではなく、自分の仕事が日本人全体の幸福につながると考えられるのであれば、一人一人が幕末の志士のようなパワーも出てくるのではないかと思うのだ。
そのためには価値観を変えること。それにはやはり教育が大切だと痛感する。学問をすることにより考える視野が広がる。違う角度で物を考えることができる。世界が広がる。
さらにもっと知りたくなる、好奇心が湧き出てくる。勉強が苦にならない。知らないことを知るのは本来は楽しいことなのだ。
知らないことは間違った方向への思い込みを作る。
知らないことの恐ろしさを知らないのは、知らない者だけ。
最初「長州ファイブ」なんて軟派なタイトルをつけやがって、と思い込んでいたが、これは彼らが留学したロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として顕彰碑が建てられており、そこからとった言葉らしい。
知らないことは思い込みを作る。そのとうりでした。
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